こんにちは。
関西に住んでおります。兵庫県民 羽鳥です。
巻頭に持ってきたのは
ぴよカメラ先生に撮影して頂いた、関西のPhotostudio.
他者がいなくて穏やかで、のんびりした、小物たちのかわいらしい時間が流れていました。
どうしてphotoStudioに寝台が?!と思うでしょう、
写真のように小物がいっぱい並べてある状態のスタジオでした
だったら、寝台は使わず、かたわらに ひとり佇んで 撮ってもらおうと思いました
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こちらのBlogは私の庭
そして皆様の目に触れることができる「言葉の空間」
言葉で生きているような私には この場所は とても大切でした
何を目指したらいいか 目標を見失うような心地になる時も
この空間の「真っ白なノート」を開けば
自分が何を綴りたいか 分かりました
今も この庭に綴りにくるとなにを描きたいかが見えてきます
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「初めに言葉があった」
私はその言葉を信じています。
今思っても、心のほとんどすべてを言葉に支配されているような心、魂で、
もしかすると「言葉族」です。私は。
見た目より、さらに、たいせつなものとして 言葉を 戴いています。
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ゆえに 絶対に許せない言葉や
耳に入れたくもない言葉、口にしたくない言葉などもたくさんあり
ちょっとした他人からの悪口ひとつで「?!」と必要以上に混乱することは もちろんあります
言葉族でも、かといって他言語は、決して必要以上に流暢だったりはいたしません。
ペラペラ。ではないという意味ですね。さびしいですが仕方ありません
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「見抜く力」 「見抜く目」と やらを
私は最初のうち「楽譜に対して」だけ発揮していました。発揮できるようになっていきました
楽譜が語っていること、
ベースのライン、ひそんでいるコード。隠れメロディ。和音進行。ゆたかさ。
最初は、「楽譜を見抜く」ことからスタートしています。27才頃〜30頃は。
楽譜に「書いていない」ベース音を見抜け。潜んでいる隠れテンションを見抜け。おんぷになっていない音まで
見抜け、と。 できるようになりました。
他者が善人であるか 悪人であるか 見抜く力は、30歳頃は 正直 まだまだ 甘く、もしかしたら
良性ではない空気を感じ取っても その 他者への悪口力に生命力を奪われていくような心地で
とにかく 人の 善 悪を 30歳では見抜けていなかったと思うのです
梅田茶屋町時代ですね
ただのピアノの師弟関係だけでしたが、感謝は、あります。楽譜を見抜けるようにしてくださったので
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40歳になりました。
その年齢に至るまでの3年ほどのあいだに
迫害される、という心地と感覚をどんどん学んでいきました
日本国で生まれた、日本国民で、兵庫県西宮市うまれの平和の民であるので
Foodが何より大切、という想いとともに日常を生きて。
普通に考えれば「迫害される」がはじまる理由が
見抜けそうにない感じなのですが
つまりは
無根拠に迫害されている感覚を、たびたび覚えるようになるのですが。
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なぜ迫害されるのか。
なぜ 理由なく 孤立するのか。
なぜ、きよらかなアイテムを外界でふと見つけて「光っている。綺麗、これをお家へ連れて帰ろう」と思ったら
ささやかでも自宅に連れて帰ったアイテムに「ねたましい!」と聞こえた気がして
そのアイテムに宿っていた光が、ふっと、呼吸をひそめるような動きが見えるのか、理解しかねました
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迫害されるということ。孤独を噛み締めるということ。
その中で、キリスト教に出会いました。
イエスキリスト、ナザレのイエス様の言葉を 聖書で わずかずつでも読むということを始めた時
聖書と現実とのリンク、聖書で禁忌になっていることは、
ほんとうは現実とも共鳴していて、映りあっていて、
聖書を読めば 「なにが魔的で」 なにが「本当に清らかなのか」
人間が自分の知恵で語ることより
人間が思いつきで「これが悪いってことにすればそれが魔なんじゃない?!」という
そういう誰かの思いつきを 指針にするより
<聖書こそ> 清性と 悪を 見抜く指針になっていると本心から気づくようになりました
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あらゆることを「見抜けること」
笑顔の、横顔からの、ゆがみに気づけること。
なにかを圧倒的に攻めるもの を 見受けたとき
驚異を感じ 脅威を感じ
人は そこに同調することも簡単な生き物かもしれないけれど 私はむしろ
何か他者を圧倒的に責め続けるもの、
それは 時には 「聖性への攻撃である場合さえある」わけです。
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では、聖性への加虐を行うものはなんであるのか?
それこそが悪の側、ということです。
聖性を見つけた時 それを攻撃するものが 「悪」なわけです
女性であろうと悪はあり、男性であろうと悪はあります。
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そして私にとっては ベース楽器の
アーティストでありながら
撮影された白黒写真と 小さな砂漠の写真と 舞台への斜め姿勢と
色白さんのHogari Hisaakishi氏 も はっきりと「悪」です
なぜなら彼のライブ演奏中に、人以外の姿を、一瞬、感じたことがあったから。重く。
ぬっと、何か 私ひとり兵庫県の道を歩いていても
気配が、気配だけが重たい感じがするのです。重力だけが重たすぎる。感覚論でごめんなさい
あの人へ 挨拶したこともないのに
直感的に 他人をこの上なくうつくしく撮影することが 無理なひとだと わかりすぎてしまう
気軽に近づいて気軽にお話は 私は一生ないと思う
人のなかに善性を見たいのは、それは、そうです。絶対誰でもそう。
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聖なるものを見つけたい、
聖なるものを探したい、
ほんとうに
聖なるものを 拝みたい、 歪んだものではなく。
それは私は、布で包まれていたり
何となくですが 着衣のままというか
なんとなくですが 「他人が素敵といっているので拝む」というものでは ほんとうはないと思う。
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そういった心地の人が増えるだけで
清らかを快適と思う人が増えるだけで まだ 日常は綺麗になっていきます