小さな声のBlogですけれど。水曜日。
真善美 って
20代に活字を目にした時は
おそらく………通り過ぎるような
小さな声に出会ったような
私だったんです
心に深く刻まれ、とかではなく。
そういった三文字があるのね。という羽鳥は「通りすがり」
だけれど先日
レストランMenuに小さく
Shin zen bi と書いてあったから
「….!」
この活字に見覚え。
そして、真実であること。良きものであること。美しくあること、あるいは
美しいものを壊さないこと。
嘘が混じると
人の心は「どうせそれも偽りでは?」に変わってゆくのです
嘘をつかれた人
嘘を聞かされ続けた人は「それも正しいか疑わしいね」と答えるようになるのです
今ここで、この場所で
ひとりで目にする活字。かつてとは違う印象。Shin zen bi.
嘘が全くないこと/善なるものを拝すること/美しく景観があること
最初の3つが
心を集めるに足る理由
あったんでしょう
理由があって多くの心を集めたのでしょう
嘘があっては美しくならない、と
嘘だけで美へ固めてゆくと 信条と大元から逆方向になりかねないのでしょう
善なるものを拝め
偽りが混ざったことを聞いても ひとはまず「そうなんですか?」「知らなかったです」と
答えてしまう つまり偽りが数箇所あるだけでも 事実と相違は美と遠ざかりゆく
聞かされた情報が
偽りだったとわかるのは後からです いつでもひとは
「それは偽りではなくて?」と 一言 付け加えなければならなくなりました
この人は良い人で、も
この人は若者思いで、も
例えば この人は業界で有名で若者を大切に思っていて、も
「それは裏はないの」「それはキャッチコピーではないの」「それは本質なの?」
「それはこの人の笑顔から醸し出されているものと、同じか?」
「この人の言葉の使い方は”他人を思いやる”を満たしているか」
その人の発した言葉は、あなたの心や状況に”配慮があるか”
「この日時にこの空間へ」「それは偽りではなくて?」 羽鳥は、いつも割と、そう
「本当に、その日時に、約束などが果たされる?」羽鳥はいつも割とそう。7月も、そうです
アポイントの相手も同じことは思っていると思うのだけど(本当に来る?それともやめておく…..?)と
思い返せば「明日の午前11時はこの人と会っていて」の話が
ほとんど全て偽りのF氏も 遠い記憶にいる
「昨日の午前中は こういうプロデューサーと会ってる(予定)あってきたんです」 → これも後日にはフェイクとわかる
「ああ、昨日なら、先日くるはずだったプロデューサーが夕方に寄って 午前のはずが夕方になったんです」
”偽り” には羽鳥は 慣らされながら育ったと思う
昨日は ? 明日は? 先日は? そう大切な会議とやらは実りありましたか?
私は何気なく質問するのだけれど
真実が返っていたことは あまりないと思います
つまり「真実が何一つ含まれない」ならば → 会話も無意味ということに。。。
インタビューってね
嘘しか返らないひとに聞き続けたら「嘘だけ聞き続ける」ことになるでしょう
20代は そこに気づきにくいと思うのです
だって性善説で育ってきたでしょう?私たち
自分にとって環境が良くなる
自分にとって教育や 賃金も良くなる そう「信じ込む」理由
そうなって欲しいから。
聞きたい言葉を人は聞くから。優しい大人も世界にはいると「思いたい」から
Shin zen bi 三文字は それ自体は
何も…… 何も おかしい言葉ではなかったと
真善美
さかさよみの恐怖だけをクローズアップすると
最初から求心力などなかったはずなんです
真実であること その美しさ
さかさよみ禁止。
水曜のつぶやきです