シンプルな質問にはコンマ2秒以内に答えられても
奥行きがありすぎる(含みありすぎる)質問には絶句することがあります
真実を答えるように設定されている私ならでは なのか
それは回答を隠すという意味合いより むしろ
本人の表層意識からも無意識深層からも
回答を汲み出せない瞬間があります。
「大事な魂をどこに置いてきた」と
それは「では、ここにある器に”魂が残っていない”と解釈されている?」という返しになります
魂を置いてきているなら
此処の私は何かしら。 それって人生で数度は自問するもの
今ここで
キーを打ち、呼吸は乱れず、日光浴帰りの「私」の
器に残っている魂が本来の7割程度まで既に減っていることが、見えていると?
本来の魂量の7割程度で
生きている可能性を認めます。
本来の「欠けていない中身」の7割程度でも歩いて、品物を定めて、店員に対価そのまま金銭を渡して
還るべき国を見失いながら呼吸していることは「認めます」
還るべき国が「黒と金のフランスだった」頃は
そこに「人間が多く」「ピンクベージュも寄り添える」優しい時代
ピンクベージュ サンドベージュが淡い紅色がかっていた頃
”攻撃的”はおよそフランス的ではなかった つまり私はパリで攻撃されて”いない”
フランスの滞在期間に、hatoriは 攻撃的な言葉を聞いた覚えが皆無です
帰ることが容易(だった)スペインも
夾竹桃(キョウチクトウ)の日差しに強い生命力
オランジュ100%のトレードマークと、溢れるようなオレンジ果実の実りが「当たり前」だった頃の
マルシェも「ビルの内側」ではなく
本当に 屋根が高く 空に通じ 風が心地よく吹き抜けていた頃のマルシェがあった頃のスペインならば
街でも
国立書物保管建物でも
スペイン音楽の「王道」「国立」あたりの「抜け道のない」しっかり強固な道でも
人間と日差し多かった頃なら
いずれも正解だったと溜息をつくのですが
当然でしょう?
人が少なく
日差し少ないなら それは 青空とオランジュのエスパニョルじゃない
30代を超えたなら 音楽で鍛えることを学んだ女性は「半日影」じゃなくとも生きられる
つまりは直射の日光にたじろぐような魂は30代には
およそ卒業している
強すぎる太陽に対峙できる揺るぎなさは
30代ではhatoriは「ほぼ」獲得済でした
スペインの太陽に揺るがない身体と精神と書いても良いのかもしれません
「今」「hatoriが」「人と日差しが目減りしていない」都市を希うのは
その都市の治安に全力を傾けるに「足る」
都市を探しているのだと思う
そこに「前世も会話+お茶ができている作家がいるのなら」なおさら。
意外に重要なポイントなのです
「安心して」「着座して」「喧嘩にもならず」「ダレず」「傷めあわず」
お茶して会話ができていた作家がいらっしゃるなら
その都市まで遠征するような。
種族に生まれているとは思うのです。今更に。
人は「遠征の先に」大抵は目的があります
街ごとが観光客を最初から両手をあげて歓迎している場合を除いて。
そして5月
古今東西の「青い鳥は。とても意外にも。あなたが暮らした家近くで囀っていた」に
帰結するのか、私にはまだ分からない
今年の奈良 2025の奈良は
2度と思い返したくもない旅と佇まいと駅となりました
<おそらく「吉野」という駅そのものがトラップ>
それをね
「奈良の花季もそうだった」とは決めつけたくない
思い返す
十年も前なら
奈良の「春日」 奈良の「渡り廊下」 奈良の「試飲酒」 いずれも ちゃんと神秘と奥ゆかしさには満ちてた