私は最近
苦手と感じる写真がTwitterにあるとすれば
どういう画像だろうと自問することがあるけれど
不必要に翳りのあるフィルターが流行中でもあるような、
「太陽と仲が良くなさそう?」な写真が苦手なのでしょうね。
不必要な翳りは、それこそ不要です
いちばん最初
ご自身のファン用Blogに唐突に「不浄」という言葉を
ほんとうに唐突に、前触れなく、自身のファン用サイトに記したIさんの記事に
「不浄は すたれる…と書かれても、何を指して 不浄と呼びたいのでしょう」と
首を傾げたことがあるのだけれど (前後のつながり何もなかった記事です)
そもそもその一記事以降は、その話の続き、出てこないのです。
1回だけ。いきなり不浄と。
思考に引っかかりを覚えた読者は多いでしょう
よもや 私自身が この「思考し、真実を明らかにするためのBLOG」で
不浄という二文字を綴らねばならない日が来るとは
思っていませんでした。
最初に、清らかでない。不浄。という言葉を
会員用サイトへ綴った人の執念めいたものを、つまり、「他を不浄と呼びたい」熱心さを
2024の年初まで引っ張りたくなかったけれど
その他者の念が消えないようだから
そういう、「自分自身ではない他人を」清らかでない、と言い続けたい人たちが一定数
どうしても消えないようだから
言い続けなければ自身を保てないようだから。
足跡として記させていただきます。
関東で「きよら」という名前の卵が売られていました。
どんな文化かなあ、と散策して見つけたスーパーの卵のコーナーで。
清らかな、という意味を、きよら、と呼びたい人がいるようです。スーパーの卵を見て思いました。
それなら羽鳥も本当は「きよら」という響きで構わないのだけど
BLOGでも 日常でも 思考活動でも 言いふらすことでも
自分以外の「他人は」「不清」きよらかにあらずと言い広めなければ生きられない人を、1日も保てない人を、
わたしは本当に、めずらしく思う。