これも、私へのひとしずく です。
勝負ではない音楽のこと。
(まだ、咳が時間帯により、激しめに残っている為
異様にお暇するのが早かったり
ご無沙汰しており本当に申し訳ありません)
あるいは、神様と私しか、いない、
ピアノのステージ板のつぶやき。です。
ライブを聴きに来てくださるお客様から
いいよ!いいんです!カイくん!!(?)と勧められていた
アニメーション作品「ピアノの森」を
サクッと観ました。
良き作品でした。
重すぎなくて。
「森のピアノ」が作中に登場します。
なるほどなるほど! フルコンのグランド。
積年の私の違和感が・ですよね・と、ほどけた感じ。
お勧め作品!です。
ネタバレしないように留意しつつも
この作品を観て、私が何を回想したか、書けるかしら。
少し試みてみますね。
極度にネタバレ嫌いの方は、以下、読まずに
本日はサイト離脱プリーズです<(_ _)>
むしろネタバレしました(苦笑)
「羽鳥がたり」のはずなのに、作品ストーリーにも抵触してしまう(+ +)
なんの予備知識も入れずに、
25年以上
ピアノと生きているはずの羽鳥が「ピアノの森」を鑑賞したのですが、
ストーリーに、まあ、「なるほど」しかないわけですけれど、
再確認したことは
「舞台上の大きなグランドピアノ+そしてひとりの演奏者」という景色は
客席から見下ろすと、景色としては、きっと派手なんですね。
大きな大きな楽器と、ひとひとりですものね。
それは目立ちますよね。
でも
実際、ピアノ演奏者は。
客席なんて見ずに弾いているのです。本当は。
ホールの壁を見ているのです。
もっというと音しか見てないのです。音の行方というか。
だから「音楽の神様」と「鍵盤」と「私」しか、居ないのです。
神様に届くかどうか。それだけ。
練習室では、何度か、遭遇した、神様に
さあ
本番も逢えるか、どうか。それだけ。だと思うのです。
さらに欲をいえば
本番のホールでしか出逢えない空に、逢えるか、みたいな。
(↑ここ「演奏者視点」です)
そして作曲者に恥ずかしくない音を
「今日のわたし」は 奏でられるのか。っていう。
実に「ですよねー」と、違和感が解けてゆく作品でした。
子供の頃から
わたしは誰かの本番ピアノ演奏に
<悔しさ>なるものを、感覚として覚えたことは、
多分一度もなくて
同級生の演奏にも
「悔しい」と思ったことが多分、一度すらもなく
それは、どこか私が異常なのかしらね…?と うっすら悩んでいたのですが
いや、やっぱり、異常では無いな。
羽鳥の場合、普通だ。
と、このアニメーションを観ながら、再確認しました。
「演奏コンクール最優秀を望んだことがない」から
悔しがったことも無いんでした。
もっとも
金賞を取るようにと私を追い込む人が
いなかったことも、幸いしたのでしょうけれど。
コンクールだけではなく
音楽を勝負の道具にすること自体に違和感しか、ないんだ。
とっくのとうに
コンクールから隠遁していて、ごめんなさい (。。) (← ???)
誰かに勝とうと思って鍵盤を弾いたことが、ない、だから、
勝ち負けの話を音楽に持ち込まれると
違和感が、自動的に
胸の中に灯るのを、いつも、困惑しながら、眺めるのです。
年齢ひとけた でも
年齢二桁 でも
当たり前に、猫は、猫でした。
ですから
人間が突然に現れて、勝負事の話をすることを
とても奇妙に眺めていました。
「ねえ、〇〇ちゃんと、どっちが上手いの?」やら
「毎年〇〇さんが最優秀だから、やっぱり今年も〜」やら
「私だってあんたぐらい弾けるもん!!」やら
「〇〇さんぐらい弾けるようにならないと」 やら
いつも人間語に対して、あらかじめ予想されるような、あまり正しい反応を返せず、
(ごめんなさいそういう感性でピアノ弾いたこと、ない) としか
つまりは音楽を<勝負>と感じる感性を、私は持たずに、うまれてきた。
そういう性格なのです。
逆を言うと
クラシック出身ミュージシャンは
永遠の修行者ですから(苦笑)
自己評価を高めるのって、まあまあ至難なのですが、それが何か?という、
そういうお話でした ☆
それでもバトンは繋げる。
それでも、連弾できる。
鳴らしたい音色が織りあげられない、どうしてだろう、と、首をかしげる成人男性に
定期的に、織り方のコツを伝えることならば十分にできるから。
音は伝わってゆきますし。
ピアノソロで
「勝って」 どうするの、、、? と、
最近も相変わらず「勝ってどうするの?」感を持ったままの。
羽鳥猫でした。
おそらく、こういう猫がいても良いのですよ。
エリックサティほどの奇人には、なれそうもないけれど(笑)
この猫の望みは、はじめから<演奏家としての最優秀>じゃないのです。
だから寂しくないのです。
西宮北口へ
ラファウ・ブレハッチのピアノソロ(Chopinコンクールの、その年の優勝者。優しげな青年でした)演奏を聴きに伺った際も
ただ精緻な優しさに触れた、だけで
悔しさなど1ミリも感じとることができませんでしたし。
勝つためのピアノじゃない。
多分わたしは元々は
水滴のピアノ弾きなんだろう。
そういう風に。
いつかRECできたら、いいな。
そして思う。悔しくなかったとしても。
別に、悔しくなくたって全然いいんです。
自分以外の、誰かの、
聴いて、なぜか涙のこぼれ落ちる演奏に、確かに、ほんとうは
一年に一度ぐらいの頻度で(?)
出逢いたい、な。
贅沢ですけれど。
あらゆる偶然の積み重ねが、もし奇跡を呼ぶのなら。
羽鳥猫は、きっと十分に、幸せなのでしょう。
幕間〜Piano〜ほどけてくる、私の、長年の違和感。つれづれ回想でした。
良き作品に触れて、
つい、
わたしも森へ通じてゆくようなシューベルトを、ふと弾きたいように思い出す夜。 10.24